バーは総じて暗い場所だがそれにしてもここは暗い、とAは思った。3杯目のマリブコークは氷が溶けて薄茶色い水になっていた。友人のMは今朝恋人と喧嘩をし、それに関する謝罪の電話を掛けるため席を外していた。よってAは一人だった。目の前の壁に丸い鏡が掛かっていた。顔を上げるとすぐに自分と目が合った。Aは鞄から本と煙草を取り出した。ライターが無かった。通りがかった店員を呼んでライターの有無を尋ねた。「マッチならありますが」不愛想な店員はそう言ってどこかへ消えた。彼はすぐに戻って来た。Aは左の手のひらを上にして差し出した。店名が印刷されたマッチ箱はその上には置かれなかった。店員はまるでAの手など見えないかのように木のテーブルの上に直接それを置いた。Aは煙草に火を着けて本を開いた。本の中で二人の若者が一人の老人を滅茶苦茶に叩きのめしていた。
間も無く本は読み終わってしまった。煙草はあと4本残っていた。Mが戻って来る気配はまるで無かった。Aは次の煙草を口にくわえた。あと3本。煙草が減るごとにAの中の考えるべき事柄も消えていった。われわれが明らかにしておくべきことと言ったら、Mはもっと早くこの暗い地下へ戻って来るべきだった、ということだろう。もうここには何も残されていなかった。あるいは何もかもが無くなる予感だけがあった。