2014年6月19日

 百年間もの孤独にわたしを追いやった人物が信号待ちをしているとき、すぐ真横に居るのに気がついた。その人物と関わった期間はほんの一瞬に過ぎないにも拘らず孤独がここまで長引いたのは、後に続く愛がすべて固有のものでは無く、その人物との時間・関係・愛を反復しているに過ぎなかったからだ。
 わたしは彼が纏うヴェールを一瞬に凝縮された永遠の中で、はがし続ける。彼の一部分すら永遠に所有出来ないからこそ、わたしは無我夢中で彼を永遠に欲望し続ける。この、フランスの思想家が突きつけた事実は間も無くわたしの経験として機能し始め、それは例えようも無い恐怖であった。が、永遠に尽きない欲望の連鎖を断ち切るのは容易だった。彼の肉体の内側にまで侵食しているヴェールから手を放し、はがすのをやめればいいだけだった。


 わたしが直接受けたわけでは無く友達に相談されたことなんだけれど、久しぶりに物凄く打ちのめされる話を聞いて眠れない。いかなる場合にも正しく在るためには、自分の中に確固たる正しさの聖書を持つんじゃなくて、不断に他人の内から正しさを見出さねばならない、という当たり前の事実を知らない人間というのは結構多いのだということが、大学生になって知った絶望的な発見の一つである。正しさは物凄く巨大な存在だから、われわれヒトごときが選択出来るようなものでは無いのだ。そしてまた、自己愛が強いくせに、自分にとって最も必要なものが何か分からない人が多いということ。
 なんだか悟りすました善人気取りで恐縮であるが、ただ単純にエモの情態に置かれているだけである。まったくああいった話を聞くにつけ、ほんとに悟って仙人になって、あらゆる対立概念の周縁であぐらを掻いていたいような、いややっぱり最後の最後まで人類を信じてみたいような、相反しているのだか愛という一点で完全に同質なのだか、道に迷ってファックと叫んでいた白人のおじいちゃんの気持ち、うどんの外は災難じゃい、そんな感嘆が口から鼻から漏れます。
 もう如何ともし難いので、天使だった頃の思い出という設定の妄想に浸って安寧を得たい。そう言えば先日、「ベルリン・天使の詩」未鑑賞の恋人が、「もしかして、前に天使だったことある?」と訊いてきたので「エッ、何で分かったの」と驚いた次第である。