2014年8月1日

 夏休みという響きは何故かくも人々をうきうきたらしめるのか。昨日は百貨店で化粧品を購入し映画館へ行ってチケットを購入、喫茶店で珈琲とババロアのセットを購入し、ほげーと言いながら読書しつつ男の登場を待った。二階は涼しかった。やがて男がやって来てしばらく二人で、ほげーと言って、映画館に移動しホドロフスキー翁の最新作「リアリティのダンス」を観た。現ホドロフスキーが、海に身を投げんとする幼少時代の自分を抱きしめながら「苦しみに感謝しなさい。それによって今のわたしになれる」と言うところがあって、先に観ていた友人が「いやー陳腐だけど、魂が救われるって感じの感じよ」と評していた意味が分かった。
 前にも書いたけれどルソーが「告白」という本で、告白の材料となる問題はそれが切実であればあるほど、個人的であらばあるほど、惨めで滑稽なものなのだ、つらい、と言っていたけれどまさにこの映画がそうであった。ホドロフスキーも彼の両親も愛その他の切実かつ個人的な問題に切迫していて、それゆえ笑えるシーンが結構あった。ていうかふつうに笑った。「グランド・ブダペスト・ホテル」は一瞬も笑わなかったけど、これは笑った。笑ったあとに、もしくは笑いながら「魂が救われるって感じ」がやって来て心臓がギュンとなった。それと過去にめっちゃしんどかった頃のことを忘れず懐かしまず抱きしめることが出来るというのは、すごいなと思いました。なのでわたしも80歳まで生きられたらそういった気持ち・気分でいたいと思いました。

 いまは友達がくれたCoconut Recordsの歌を聴いています。最近は山本精一の「ファルセット」というCDを買いました。

2014年7月23日

 なんでか今日なにも無いと思って目覚ましをセットせずに寝た。11時に起きた。よく考えれば2限(10:45から)テストだった。はあ。責任の発生しない人生は最高。先日そういえば気管支炎になった。4月だかなんだかに胃炎になったし、その前もいろいろの炎を、なんて部屋で汗をだらだら流しながらパソコンに向かっていたら蝉が鳴いている。油蝉だ。そうそれで、去年の今頃、梅雨辺りからいろんな病気を、主に炎をこじらせるようになった。病院に行く前にインターネットで症状から病名を調べると大抵「がん」と出てくる。今回なら「咽頭がん」。もう駄目なのか、どう考えてももっと長生きして楽しいこといっぱいしたいし花火とか盆踊りとか、浴衣着て、行きたいのになあ。と祈るような気持ちで病院に行き、なんらかの炎であることを医師に告げられ安堵の溜息を帰路ひたすら漏らしながら歩く、といった日々。
 今日このあと何時からか知らないけど友達と遊ぶ予定が入っていて、でも面倒になってきたなあ。このまま家でじっとり汗をかいて居たい。この部屋がこんなにも暑いのは、クーラーのリモコンを紛失したから。暑い。いますごく暇で、といってもレポートをせんならんので暇では無いんだけれど、なんとなく町田康のオフィシアルサイトの日記を遡っていたら、「PUNK」と書いたティーシャツを着てバンドの人たちとの集合写真に臨む町田康が居た。ふざけたジジイ。と思った。ダンテとかドストーエフスキイとかそういった大理石を担ぐ作業みたいな本ばかり読んでいたから、あ~ラノベ読みたい~、と思って町田康の本を昨日一昨日は読みました。「俺、南進して」「くっすん大黒」「パンク侍、斬られて候」「真実真正日記」「夫婦茶碗」の順で読みました。「俺、南進して」と「パンク侍、~」を合体させてよりコクを出したのが「告白」なんだなあと思った。いちばん良かったのは「夫婦茶碗」。思い掛けず滑稽でいじらしく切ないラヴ・ストーリーだった。
 この間大学の前のカフェだかレストランだか分からないけどそういった類の飲食店の前を通ったら、なんていうジャンルの音楽なのか分からないけどアコーディオンを使うような類のバンドが演奏をしているのが、開け放たれたドアから聴こえた。演奏がちょうど終わるところで、客は各々丸テーブルに就いて安楽な状態で満足げに拍手を送っていた。いいなあと思った。

2014年7月22日

 ゼミのレポートを書こうと思ったのにただじっとりと汗をかいて読書してアイスキャンデーを2つ食べて一日が終わった。もうすぐお誕生日の友達が居る。その人がわたしの書いたおもしろ小噺をプレゼントに欲しいと言うんで今日すこし書いてみたんだけど、無職の中年男が死んで青りんごになる話を3000字くらい書いて、お誕生日に人が死ぬ話はさすがのわたしでも良心が咎めるな、と思ってよした。それでその後は上に書いたような虚無の時間を過ごした。

 この間諸用で三年ぶりくらいに高円寺に行った。やはり気持ち悪い街だと思った。とは言えわたしも中学生の頃はガロの漫画にはまり、戸川純とかアーントサリーとかあぶらだことかマチゾーとかのサブカルに心酔(仮)して、ビレッジバンガードは汚くて嫌いだったけどそれなりに中央線文化に憧れを抱き、高校一年生で初めてアルバイトしたのは水道橋の飲食店だった。しかしすぐに中央線の駅は気持ち悪いと気付いた。なにが気持ち悪いのかはよく分からなかった。大学よねんせいになったいまうっすら分かるのは(うっすらなのはこれらについて特に考えたいと思わないから)、文化というのは一人では生れず、人と人との関わり合いの中で生まれるわけである。で自分はそういった文化的なグループやチームは嫌いなので、何故なら好きではない人の自己愛に付き合うことが出来ないので、中央線は、気持ち悪いんだよなあ。と思った。

2014年7月16日

 いろいろあって町田康の著作をいくつか読んでいる。「俺、南進して」を読み終えていま「パンク侍、斬られて候」読んでいる。退屈な内容でも「どつき回す」「ほたえる」「こます」の三語が使われた瞬間心にグッとこみ上げてくるものがあるので、いいご身分だと思う。わたしは東京が大好きで他の土地にほぼ興味が無いのだが、方言は心底羨ましく思う。方言に対する憧れが、文体への拘泥とか外国語(ざっくばらん)を習いたがる性向、共通語である英語に対する関心の低さと関係していると踏んでいます。どうでもいいけど。インターネットで方言を使うと、特に関西弁を使うと差別と弾圧の対象になりがちだけど、一気に人間味が出て面白いので嫌いじゃないです。
 町田康の本にはよく落語の話が出てくる。だから落語に明るければより楽しめるのだろうと思う。しかしわたしの聴覚処理能力には少々問題があって、言葉と意味がきちんきちんと連絡し合わず、シニフィアンとシニフィエの彼岸に飛ばされることがしばしばある。そのため音声言語命の落語を楽しむのは難儀なのである。事実、先日授業で桂枝雀という人の「時うどん」という落語を観たのだけれど、関西弁で滅茶苦茶早口なのも加わって一言も聞き取ることが出来なかった。でもあれは結構、落語に親しんでいない人が聴いたら分からないような気がする。どうなんだろう。それでわたしの好きな男が落語が好きだと言うんで「こないだ授業で桂枝雀(本当は「桂…雀に枝?みたいな名前」と言った)ていう人の落語観たよ」と言ったら、「へえ。枝雀が。彼は笑いを究め過ぎて鬱病になって自殺したんだよ」ということを教えてくれた。非常に聡明な人だったらしく英語で落語をやったりもしていたとか。聴覚なぁ。障がいと向き合って生きていこう。


 見知らぬオッサンと交わした会話。

オッサン「ねえ」
わたし「え?」(イヤフォンつけていた)
オ「今までの人生でなににいちばん熱中した?」
わ「え?…本?」
オ「最初にはまった本とか小説家とか覚えてる?」
わ「うーん。芥川龍之介」
オ「ほお。なぜ」
わ「善悪について考えさせられました」
オ「なにが悪だと思う?」
わ「相対的なものだと考えているので定義出来ません。でも少なくとも、好きな人を悲しませたり泣かせるものは悪です」
オ「もし、好きな人になんの感情も無かったら、そこに善悪は無いの?」
わ「好きな人を泣かせるものだけ、とは言ってないんですが」
オ「わかりました」
云々。

 しつこいオッサンは悪。

2014年7月8日




 土曜日に初めて精進料理を食べた。今までのおいしさには大体エクスクラメーションマークが付いていたが、精進料理のおいしさは気分を鎮静化させるものだった。亭主(でいいのか)の方が直々にお話して下さって、「年を取ると懐かしい味を求めてしまう」と仰っていたが、わたしにはどれも新しい味と感じられるものばかりだった。鳥そぼろに似ている山菜とか、甘くてブヨブヨした野菜とかあった。そういうのは結構興奮した。
 ご飯がおかわり自由だったので2杯もおかわりしてしまった。精進の道にあるまじき行為だと恥じた。
 帰りにお寺で紫陽花を観た。霧雨の中の紫陽花は綺麗だった。あとあんみつ食べた。あんみつは毎日食べたい食べ物の一つ。

 日曜日は中目黒を散歩した。ライフの近くにある有名なポップコーン屋さんでポップコーンを買うという精進の道にあるまじき行為をした。キャラメルの甘さが均一でおいしかった。

2014年7月3日

 昨日はイメージなんたらいう映画館で、ジャック・タチの映画を観た(あすこに行くたび渋谷の坂の多さに憤慨する。歩きながら「なにが映画だ、映画はばかの観るものだ、無くなれ」とかの邪智暴虐な宮益坂を除かんとわたしは激怒した)。観たのは「左側に気をつけろ」「ぼくの伯父さんの授業」「ぼくの伯父さんの休暇」の3本立。「右側に気をつけろ」を観たことだし「左側に気をつけろ」は何としても観なくっちゃねと思って行ったのに、肝心の「右側に気をつけろ」を断片的にしか覚えていなくて、というか多分断片的な映画で、というか映画は断片的ですよね。いま「左側に気をつけろ 右側に気をつけろ」で検索してみたけど、曖昧な情報しか得られなくて(ゴダールのシャドウボクシング?二つの映画の馬鹿馬鹿しさ?)、もしかしてみんな何も分かってないんじゃないかと思ってる。どうなんですか。
 どれも映画が楽しかった頃の映画だった。そう言えばファズビンダー特集アットオーディトリウム、今月だと勘違いしていたら明日までだった。超ド級に悲しい。


 最近知った綺麗なものをいくつか。

 そして、二つの瞳を見張つた時、そこに美しい人の姿が仄見えた。
 紫地に荒い立縞のコートに細やかな身を包んで、綺麗な襟もとに、ふつくらと合つた青磁の薄紅の鹿の子しぼりの半襟が可愛く、なまめいて、胸の四角なみちゆきの中に、のぞいて生える。
 おとなしやかに、さしうつむく顔は、小雨の霧に包まれて、ヴヰールをかけた仄に浮かぶ京人形の笑顔の様に、ふさ子の肩ごしに見える。
(吉屋信子『花物語』)

 さはいへどそのひと時よまばゆかりき夏の野しめし白百合の花

 二人にて常世の春を作れりとわれなほ半(なかば)思はるるかな
(いずれも与謝野晶子)

2014年6月30日

 あらゆるすべての人間が、泣きながら「つらい、死にたい、助けて欲しい」と言い縋ってくる。一方でわたしは世界に向けて、返事の帰って来ない手紙を書き続けている。
 雨が大きな音を立てて降る。それがすべてからわれわれを隔絶する。湿った呻きが19回上がる。部屋がばらばらに壊れ、外から大量の雨水が流入する。誰も巻き込まれることは無い。ただやまない呻きが濁流に飲まれていく。人称を欠いた時間が、青を求めて蠕動する。
 3回に1度のベルで眠れなくなる女。舞い込む過去を拒めない。昨夜得た光を口から零す。疲労の底へ溶けて消える。

2014年6月19日

 百年間もの孤独にわたしを追いやった人物が信号待ちをしているとき、すぐ真横に居るのに気がついた。その人物と関わった期間はほんの一瞬に過ぎないにも拘らず孤独がここまで長引いたのは、後に続く愛がすべて固有のものでは無く、その人物との時間・関係・愛を反復しているに過ぎなかったからだ。
 わたしは彼が纏うヴェールを一瞬に凝縮された永遠の中で、はがし続ける。彼の一部分すら永遠に所有出来ないからこそ、わたしは無我夢中で彼を永遠に欲望し続ける。この、フランスの思想家が突きつけた事実は間も無くわたしの経験として機能し始め、それは例えようも無い恐怖であった。が、永遠に尽きない欲望の連鎖を断ち切るのは容易だった。彼の肉体の内側にまで侵食しているヴェールから手を放し、はがすのをやめればいいだけだった。


 わたしが直接受けたわけでは無く友達に相談されたことなんだけれど、久しぶりに物凄く打ちのめされる話を聞いて眠れない。いかなる場合にも正しく在るためには、自分の中に確固たる正しさの聖書を持つんじゃなくて、不断に他人の内から正しさを見出さねばならない、という当たり前の事実を知らない人間というのは結構多いのだということが、大学生になって知った絶望的な発見の一つである。正しさは物凄く巨大な存在だから、われわれヒトごときが選択出来るようなものでは無いのだ。そしてまた、自己愛が強いくせに、自分にとって最も必要なものが何か分からない人が多いということ。
 なんだか悟りすました善人気取りで恐縮であるが、ただ単純にエモの情態に置かれているだけである。まったくああいった話を聞くにつけ、ほんとに悟って仙人になって、あらゆる対立概念の周縁であぐらを掻いていたいような、いややっぱり最後の最後まで人類を信じてみたいような、相反しているのだか愛という一点で完全に同質なのだか、道に迷ってファックと叫んでいた白人のおじいちゃんの気持ち、うどんの外は災難じゃい、そんな感嘆が口から鼻から漏れます。
 もう如何ともし難いので、天使だった頃の思い出という設定の妄想に浸って安寧を得たい。そう言えば先日、「ベルリン・天使の詩」未鑑賞の恋人が、「もしかして、前に天使だったことある?」と訊いてきたので「エッ、何で分かったの」と驚いた次第である。

2014年6月16日

 冗談だと分かっているのに嫌だと感じること、というのが存在しなければいいのにと思う。わたしはそのことについて、どこまでの指摘を許されているのかがさっぱり分からない。でも許すって誰から?それにしてもあなたはまるで、理性と感性がまったくの別物ででもあるかのような言い方をする。そういうのは今すぐによすべきだ。何故ってあなたの無知を露呈することでしか無いから。



・映画
「グランド・ブダペスト・ホテル」
→色んなことをやっていてそのどれもがいい匙加減だった。ただウェス・アンダーソンの残念なところは、コメディ映画なのにめちゃくちゃギャグのセンスが低いというところ。でも隣の人は結構笑っていたから、壊滅的かつ絶望的なまでにわたしと笑いの趣味が合わないと言うほうが正しいかも知れない。たとえばエゴン・シーレ風の絵を引き裂くのとか猫をポイと窓から捨てるのとか、それこそ「ブラック・ジョーク風」という感じでだから何と思う。ウェス・アンダーソンの映画はグザヴィエ・ドランの「わたしはロランス」を観たときと同じ感じがする。感じ感じってさっきから無根拠極まりないんだけどブログだしそれもまた乙。
 でその「感じ」はどんな感じかと言うと、冒頭で書いた「いい匙加減」という部分が要するにそれである。彼らは器用で頭がいいんだろうな、という感じ。「こうすればセンスのいい映画が撮れる」というのを知識として知ってしまっているのだと思う。それは仕方のないことであるとも思う。百年に一人の天才でも無い限り、われわれ生来の凡人(さすがに二人は凡人じゃないけど)が芸術家だ哲人だと呼ばれるには死神あるいは悪魔かそこら辺の奴らに魂を売らなければならない。でもその買い手だってさすがにもう人間に倦んでいてろくに買ってくれやしない。強いて言えば、黒人の魂がかなりアツい、というような話はあるのだろうけれど。
 だからどうってことでも無い。進行しているあらゆる芸術活動が無意味だと言いたいのでも無い。意味が無いものを尊べないほうがつらい。形容詞が多い。
 予告編で流れた「リアリティのダンス」が面白そうだった。

「タロットカード殺人事件」
→心底ミステリーに関心が無いので観てなかったんだけど、全然ミステリーじゃなかった。いつものラブコメだった。ウディ・アレンは顔が面白いので狡い。ウェス・アンダーソンも見習うとよい。

2014年6月13日

 PCが壊れかけであることとか利用者(つまりわたし)の技術不足だとかでnoteを使いこなせなかったのでやはりこっちにする。時代についていけていたのは、どうやらここまでだったようだ。



・今週観た映画
「エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン」
→興味深い内容だったがもう少しフェラン・アドリアの思想が知りたかった。ロック兄ちゃんみたいな料理人が「NEW YORK FUCKIN CITY」とプリントされたTシャツを着ていてよかった。

「ダージリン急行」
→「グランドブダペストホテル」を近々観に行く予定なので士気を高めんと観た。やはりいい映画だ。アンジェリカ・ヒューストンは癖のある母親役やりすぎ。

「恋する惑星」
→周りから頻繁に勧められるので観たが非常に嫌いな感じだった。



・写真