大学生活最後の夏休みも、結局何者でも無いまま終わった。長期休暇という気分では全然無くて、まあいつもそうなんだけど、最初からこれ(アルバイトに行くか友人と会うか)以外の過ごし方なんて無かったのだ、という錯覚を覚えるほどだった。あるいは日曜日を何度も反復しているような気分。とにかくいつにも増して現在以外の時間に対する意識が取り払われた不思議な二ヶ月間だった。
この間「けものがれ、俺らの猿と」の映画を観てから本を読んだ。映画は何度も主人公が目覚めるように夢みたいな脈絡の無さがあったんだけど、小説のほうはちゃんと繋がっているのに気づいたらまったく違う場所に連れて行かれていって迷子になったようだった。DVDになっている映画を観たあとにアマゾンのカスタマーレビューを閲覧するという人は多いと思うがわたしもそうで、かるーく流し読みしていたら「不条理」という文字が散見された。この小説は結果として不条理になっているだけで、現実の過剰な状態とか過剰にデフォルメされた現実を描いているんじゃないかなと思った。より端的に言えば「実録・外道の条件」の絵本ヴァージョン。それにしても「婆の駒」という言葉はかなり良い。久しぶりに良い言葉に出会って嬉しい。アルバイト中チケットを売っているとき、喫茶店でパフェを食べているとき、赤提灯で冷奴を肴に日本酒を飲んでいるとき、心にふと「婆の駒」という言葉が浮かび思わず口ずさんでしまう。
とりあえず町田康の本は犬のエッセイとか以外読んだので、バネの反動みたいな感じでグッと、社会に参加しまくりたい。
2014年9月15日
2014年8月25日
鞄のポケットから去年書いた文章の載った紙切れが出てきた。
ー
6月17日は17時から酒を飲んでいた。東京は梅雨入りしたばかりで、湿気が不慣れな手つきで渋谷の街を撫でていた。金が無かった。ファミレスの白ワインはばかみたいに安かった。ばかだから無遠慮に下品に低俗に、体中をかけずり回った。しなびたホウレン草のソテーは胃の中でゴミクズ同然のにおいを放った。冷房の真下の席だったので強い冷気が直接当たった。熱がうばわれていった。肩から指先から、わたしの熱がうばわれていった。アルコールで感覚が麻痺して何も感じなかった。右どなりに座っている30歳くらいの男は祈るように合わせた手の上に顎を載せ、何も注文せずに入口のほうをじっと見ていた。わたしは特筆すべきことが無い日々とこの店のただ中で、必死に頼るべき悲しみをひねり出そうとした。今日こそはあの男を愛せたらよいと思った。愛せたらよかったのに、とも思った。
二枚目は先日友人と行ったとしまえん遊園地のエルドラドという、1903年にドイツ人が作ったらしいメリーゴーランドの写真。としまえんは幼稚園児かヤンキー崩れしか居なかった。真ん中に太い柱が立っていて、そこから数十個のブランコがぶら下がっており、10メートルくらいの高さまで上がって回転する、みたいなアトラクションがあって、われわれ以外みな幼稚園児だった。作り物めいた真っ青な空に少しだけ近いところで、ちいさな子供たちがみな一様ににこにこしながらブランコに乗って高いところをくるくる回っている、その様はこれまで見た何よりも平和で幸福ですべてが調和していて、ライ麦畑のキャッチャーになったような気分だった。
あとディズニーランドは一つのアトラクションに複数名の従業員がついて様々の役割を分担しているのに対し、としまえんは人件費削減のためか基本的にワンマン運転で、チケットの確認からアナウンス、出口への案内など何から何まで一人でやっている。そのためかアトラクションの私有化が進んでいて、BGMがYUKIやSuperfly、アナと雪の女王のやつ(これはテーマパーク的だと思ったが、一応ライバル?のディズニーのだけどいいのか?と思った)、サイケデリック・ロック、ビヨンビヨンという音が流れ続ける陰鬱なヒップホップ、都会の夕焼けみたいな小洒落たヒップホップなどアトラクションの雰囲気を完全に無視したものばかりだったのが気になった。
2014年8月18日
2014年8月10日
初めてiPodを買ったのは中学3年生の終わり頃か高校1年生の始めの頃で、そのときはピンク色のiPod nanoだった。でもすぐに容量が不足し仕方なく1年後の誕生日だか正月だかにclassicを購入。これが去年の春頃までずっと使っていたもので、今回復活したiPodである。つまりこの先代のiPodはわたしが最も多感であった(仮)約6年の音楽の趣味が凝縮されており、東は古いアダルトゲームのサウンドトラックから西はアイヌ民謡までを詰め込んだ記念碑的作品だったのである。直ってめちゃくちゃ興奮している。
ついでに言うと昔親しくしていた男から貰ったというか「聴いて」と言われて渋々入れた楽曲が結構あり、わたしは同じ曲を繰り返し聴きまくるきらいがあるので(セルジュ・ゲンズブールの「唇からよだれ」という曲だけ約半年で400回くらい再生している)聴かずじまいだったものも多分にあった。今回改めて先代のラインナップを眺めてみたところ、今のiPodにしてから知った人間も居て、うち一人がNujabesで、いま聴いています。この名前を知ったきっかけも、また別の親しくしていた男によります。こういうの気色悪いと思います。自分の趣味が男の趣味に影響されるのは格好悪くて嫌なのだけど、みんなしてイヤホンを女の耳に挿入したがりやがって。男というのはみな音楽を好きなのか、わたしが音楽を好きなのか、それとも音楽を好きな男を好きなのか、といったとりとめのない有象無象を、台風の晩に考えている。何一つ感傷を挟むこと無く、じっとりと汗をかきながら。
2014年8月1日
夏休みという響きは何故かくも人々をうきうきたらしめるのか。昨日は百貨店で化粧品を購入し映画館へ行ってチケットを購入、喫茶店で珈琲とババロアのセットを購入し、ほげーと言いながら読書しつつ男の登場を待った。二階は涼しかった。やがて男がやって来てしばらく二人で、ほげーと言って、映画館に移動しホドロフスキー翁の最新作「リアリティのダンス」を観た。現ホドロフスキーが、海に身を投げんとする幼少時代の自分を抱きしめながら「苦しみに感謝しなさい。それによって今のわたしになれる」と言うところがあって、先に観ていた友人が「いやー陳腐だけど、魂が救われるって感じの感じよ」と評していた意味が分かった。
前にも書いたけれどルソーが「告白」という本で、告白の材料となる問題はそれが切実であればあるほど、個人的であらばあるほど、惨めで滑稽なものなのだ、つらい、と言っていたけれどまさにこの映画がそうであった。ホドロフスキーも彼の両親も愛その他の切実かつ個人的な問題に切迫していて、それゆえ笑えるシーンが結構あった。ていうかふつうに笑った。「グランド・ブダペスト・ホテル」は一瞬も笑わなかったけど、これは笑った。笑ったあとに、もしくは笑いながら「魂が救われるって感じ」がやって来て心臓がギュンとなった。それと過去にめっちゃしんどかった頃のことを忘れず懐かしまず抱きしめることが出来るというのは、すごいなと思いました。なのでわたしも80歳まで生きられたらそういった気持ち・気分でいたいと思いました。
いまは友達がくれたCoconut Recordsの歌を聴いています。最近は山本精一の「ファルセット」というCDを買いました。
2014年7月23日
なんでか今日なにも無いと思って目覚ましをセットせずに寝た。11時に起きた。よく考えれば2限(10:45から)テストだった。はあ。責任の発生しない人生は最高。先日そういえば気管支炎になった。4月だかなんだかに胃炎になったし、その前もいろいろの炎を、なんて部屋で汗をだらだら流しながらパソコンに向かっていたら蝉が鳴いている。油蝉だ。そうそれで、去年の今頃、梅雨辺りからいろんな病気を、主に炎をこじらせるようになった。病院に行く前にインターネットで症状から病名を調べると大抵「がん」と出てくる。今回なら「咽頭がん」。もう駄目なのか、どう考えてももっと長生きして楽しいこといっぱいしたいし花火とか盆踊りとか、浴衣着て、行きたいのになあ。と祈るような気持ちで病院に行き、なんらかの炎であることを医師に告げられ安堵の溜息を帰路ひたすら漏らしながら歩く、といった日々。
今日このあと何時からか知らないけど友達と遊ぶ予定が入っていて、でも面倒になってきたなあ。このまま家でじっとり汗をかいて居たい。この部屋がこんなにも暑いのは、クーラーのリモコンを紛失したから。暑い。いますごく暇で、といってもレポートをせんならんので暇では無いんだけれど、なんとなく町田康のオフィシアルサイトの日記を遡っていたら、「PUNK」と書いたティーシャツを着てバンドの人たちとの集合写真に臨む町田康が居た。ふざけたジジイ。と思った。ダンテとかドストーエフスキイとかそういった大理石を担ぐ作業みたいな本ばかり読んでいたから、あ~ラノベ読みたい~、と思って町田康の本を昨日一昨日は読みました。「俺、南進して」「くっすん大黒」「パンク侍、斬られて候」「真実真正日記」「夫婦茶碗」の順で読みました。「俺、南進して」と「パンク侍、~」を合体させてよりコクを出したのが「告白」なんだなあと思った。いちばん良かったのは「夫婦茶碗」。思い掛けず滑稽でいじらしく切ないラヴ・ストーリーだった。
この間大学の前のカフェだかレストランだか分からないけどそういった類の飲食店の前を通ったら、なんていうジャンルの音楽なのか分からないけどアコーディオンを使うような類のバンドが演奏をしているのが、開け放たれたドアから聴こえた。演奏がちょうど終わるところで、客は各々丸テーブルに就いて安楽な状態で満足げに拍手を送っていた。いいなあと思った。
今日このあと何時からか知らないけど友達と遊ぶ予定が入っていて、でも面倒になってきたなあ。このまま家でじっとり汗をかいて居たい。この部屋がこんなにも暑いのは、クーラーのリモコンを紛失したから。暑い。いますごく暇で、といってもレポートをせんならんので暇では無いんだけれど、なんとなく町田康のオフィシアルサイトの日記を遡っていたら、「PUNK」と書いたティーシャツを着てバンドの人たちとの集合写真に臨む町田康が居た。ふざけたジジイ。と思った。ダンテとかドストーエフスキイとかそういった大理石を担ぐ作業みたいな本ばかり読んでいたから、あ~ラノベ読みたい~、と思って町田康の本を昨日一昨日は読みました。「俺、南進して」「くっすん大黒」「パンク侍、斬られて候」「真実真正日記」「夫婦茶碗」の順で読みました。「俺、南進して」と「パンク侍、~」を合体させてよりコクを出したのが「告白」なんだなあと思った。いちばん良かったのは「夫婦茶碗」。思い掛けず滑稽でいじらしく切ないラヴ・ストーリーだった。
この間大学の前のカフェだかレストランだか分からないけどそういった類の飲食店の前を通ったら、なんていうジャンルの音楽なのか分からないけどアコーディオンを使うような類のバンドが演奏をしているのが、開け放たれたドアから聴こえた。演奏がちょうど終わるところで、客は各々丸テーブルに就いて安楽な状態で満足げに拍手を送っていた。いいなあと思った。
2014年7月22日
ゼミのレポートを書こうと思ったのにただじっとりと汗をかいて読書してアイスキャンデーを2つ食べて一日が終わった。もうすぐお誕生日の友達が居る。その人がわたしの書いたおもしろ小噺をプレゼントに欲しいと言うんで今日すこし書いてみたんだけど、無職の中年男が死んで青りんごになる話を3000字くらい書いて、お誕生日に人が死ぬ話はさすがのわたしでも良心が咎めるな、と思ってよした。それでその後は上に書いたような虚無の時間を過ごした。
この間諸用で三年ぶりくらいに高円寺に行った。やはり気持ち悪い街だと思った。とは言えわたしも中学生の頃はガロの漫画にはまり、戸川純とかアーントサリーとかあぶらだことかマチゾーとかのサブカルに心酔(仮)して、ビレッジバンガードは汚くて嫌いだったけどそれなりに中央線文化に憧れを抱き、高校一年生で初めてアルバイトしたのは水道橋の飲食店だった。しかしすぐに中央線の駅は気持ち悪いと気付いた。なにが気持ち悪いのかはよく分からなかった。大学よねんせいになったいまうっすら分かるのは(うっすらなのはこれらについて特に考えたいと思わないから)、文化というのは一人では生れず、人と人との関わり合いの中で生まれるわけである。で自分はそういった文化的なグループやチームは嫌いなので、何故なら好きではない人の自己愛に付き合うことが出来ないので、中央線は、気持ち悪いんだよなあ。と思った。
この間諸用で三年ぶりくらいに高円寺に行った。やはり気持ち悪い街だと思った。とは言えわたしも中学生の頃はガロの漫画にはまり、戸川純とかアーントサリーとかあぶらだことかマチゾーとかのサブカルに心酔(仮)して、ビレッジバンガードは汚くて嫌いだったけどそれなりに中央線文化に憧れを抱き、高校一年生で初めてアルバイトしたのは水道橋の飲食店だった。しかしすぐに中央線の駅は気持ち悪いと気付いた。なにが気持ち悪いのかはよく分からなかった。大学よねんせいになったいまうっすら分かるのは(うっすらなのはこれらについて特に考えたいと思わないから)、文化というのは一人では生れず、人と人との関わり合いの中で生まれるわけである。で自分はそういった文化的なグループやチームは嫌いなので、何故なら好きではない人の自己愛に付き合うことが出来ないので、中央線は、気持ち悪いんだよなあ。と思った。
2014年7月16日
いろいろあって町田康の著作をいくつか読んでいる。「俺、南進して」を読み終えていま「パンク侍、斬られて候」読んでいる。退屈な内容でも「どつき回す」「ほたえる」「こます」の三語が使われた瞬間心にグッとこみ上げてくるものがあるので、いいご身分だと思う。わたしは東京が大好きで他の土地にほぼ興味が無いのだが、方言は心底羨ましく思う。方言に対する憧れが、文体への拘泥とか外国語(ざっくばらん)を習いたがる性向、共通語である英語に対する関心の低さと関係していると踏んでいます。どうでもいいけど。インターネットで方言を使うと、特に関西弁を使うと差別と弾圧の対象になりがちだけど、一気に人間味が出て面白いので嫌いじゃないです。
町田康の本にはよく落語の話が出てくる。だから落語に明るければより楽しめるのだろうと思う。しかしわたしの聴覚処理能力には少々問題があって、言葉と意味がきちんきちんと連絡し合わず、シニフィアンとシニフィエの彼岸に飛ばされることがしばしばある。そのため音声言語命の落語を楽しむのは難儀なのである。事実、先日授業で桂枝雀という人の「時うどん」という落語を観たのだけれど、関西弁で滅茶苦茶早口なのも加わって一言も聞き取ることが出来なかった。でもあれは結構、落語に親しんでいない人が聴いたら分からないような気がする。どうなんだろう。それでわたしの好きな男が落語が好きだと言うんで「こないだ授業で桂枝雀(本当は「桂…雀に枝?みたいな名前」と言った)ていう人の落語観たよ」と言ったら、「へえ。枝雀が。彼は笑いを究め過ぎて鬱病になって自殺したんだよ」ということを教えてくれた。非常に聡明な人だったらしく英語で落語をやったりもしていたとか。聴覚なぁ。障がいと向き合って生きていこう。
見知らぬオッサンと交わした会話。
オッサン「ねえ」
わたし「え?」(イヤフォンつけていた)
オ「今までの人生でなににいちばん熱中した?」
わ「え?…本?」
オ「最初にはまった本とか小説家とか覚えてる?」
わ「うーん。芥川龍之介」
オ「ほお。なぜ」
わ「善悪について考えさせられました」
オ「なにが悪だと思う?」
わ「相対的なものだと考えているので定義出来ません。でも少なくとも、好きな人を悲しませたり泣かせるものは悪です」
オ「もし、好きな人になんの感情も無かったら、そこに善悪は無いの?」
わ「好きな人を泣かせるものだけ、とは言ってないんですが」
オ「わかりました」
云々。
しつこいオッサンは悪。
町田康の本にはよく落語の話が出てくる。だから落語に明るければより楽しめるのだろうと思う。しかしわたしの聴覚処理能力には少々問題があって、言葉と意味がきちんきちんと連絡し合わず、シニフィアンとシニフィエの彼岸に飛ばされることがしばしばある。そのため音声言語命の落語を楽しむのは難儀なのである。事実、先日授業で桂枝雀という人の「時うどん」という落語を観たのだけれど、関西弁で滅茶苦茶早口なのも加わって一言も聞き取ることが出来なかった。でもあれは結構、落語に親しんでいない人が聴いたら分からないような気がする。どうなんだろう。それでわたしの好きな男が落語が好きだと言うんで「こないだ授業で桂枝雀(本当は「桂…雀に枝?みたいな名前」と言った)ていう人の落語観たよ」と言ったら、「へえ。枝雀が。彼は笑いを究め過ぎて鬱病になって自殺したんだよ」ということを教えてくれた。非常に聡明な人だったらしく英語で落語をやったりもしていたとか。聴覚なぁ。障がいと向き合って生きていこう。
見知らぬオッサンと交わした会話。
オッサン「ねえ」
わたし「え?」(イヤフォンつけていた)
オ「今までの人生でなににいちばん熱中した?」
わ「え?…本?」
オ「最初にはまった本とか小説家とか覚えてる?」
わ「うーん。芥川龍之介」
オ「ほお。なぜ」
わ「善悪について考えさせられました」
オ「なにが悪だと思う?」
わ「相対的なものだと考えているので定義出来ません。でも少なくとも、好きな人を悲しませたり泣かせるものは悪です」
オ「もし、好きな人になんの感情も無かったら、そこに善悪は無いの?」
わ「好きな人を泣かせるものだけ、とは言ってないんですが」
オ「わかりました」
云々。
しつこいオッサンは悪。
2014年7月8日
土曜日に初めて精進料理を食べた。今までのおいしさには大体エクスクラメーションマークが付いていたが、精進料理のおいしさは気分を鎮静化させるものだった。亭主(でいいのか)の方が直々にお話して下さって、「年を取ると懐かしい味を求めてしまう」と仰っていたが、わたしにはどれも新しい味と感じられるものばかりだった。鳥そぼろに似ている山菜とか、甘くてブヨブヨした野菜とかあった。そういうのは結構興奮した。
ご飯がおかわり自由だったので2杯もおかわりしてしまった。精進の道にあるまじき行為だと恥じた。
帰りにお寺で紫陽花を観た。霧雨の中の紫陽花は綺麗だった。あとあんみつ食べた。あんみつは毎日食べたい食べ物の一つ。
日曜日は中目黒を散歩した。ライフの近くにある有名なポップコーン屋さんでポップコーンを買うという精進の道にあるまじき行為をした。キャラメルの甘さが均一でおいしかった。
2014年7月3日
昨日はイメージなんたらいう映画館で、ジャック・タチの映画を観た(あすこに行くたび渋谷の坂の多さに憤慨する。歩きながら「なにが映画だ、映画はばかの観るものだ、無くなれ」とかの邪智暴虐な宮益坂を除かんとわたしは激怒した)。観たのは「左側に気をつけろ」「ぼくの伯父さんの授業」「ぼくの伯父さんの休暇」の3本立。「右側に気をつけろ」を観たことだし「左側に気をつけろ」は何としても観なくっちゃねと思って行ったのに、肝心の「右側に気をつけろ」を断片的にしか覚えていなくて、というか多分断片的な映画で、というか映画は断片的ですよね。いま「左側に気をつけろ 右側に気をつけろ」で検索してみたけど、曖昧な情報しか得られなくて(ゴダールのシャドウボクシング?二つの映画の馬鹿馬鹿しさ?)、もしかしてみんな何も分かってないんじゃないかと思ってる。どうなんですか。
どれも映画が楽しかった頃の映画だった。そう言えばファズビンダー特集アットオーディトリウム、今月だと勘違いしていたら明日までだった。超ド級に悲しい。
最近知った綺麗なものをいくつか。
そして、二つの瞳を見張つた時、そこに美しい人の姿が仄見えた。
紫地に荒い立縞のコートに細やかな身を包んで、綺麗な襟もとに、ふつくらと合つた青磁の薄紅の鹿の子しぼりの半襟が可愛く、なまめいて、胸の四角なみちゆきの中に、のぞいて生える。
おとなしやかに、さしうつむく顔は、小雨の霧に包まれて、ヴヰールをかけた仄に浮かぶ京人形の笑顔の様に、ふさ子の肩ごしに見える。
どれも映画が楽しかった頃の映画だった。そう言えばファズビンダー特集アットオーディトリウム、今月だと勘違いしていたら明日までだった。超ド級に悲しい。
最近知った綺麗なものをいくつか。
そして、二つの瞳を見張つた時、そこに美しい人の姿が仄見えた。
紫地に荒い立縞のコートに細やかな身を包んで、綺麗な襟もとに、ふつくらと合つた青磁の薄紅の鹿の子しぼりの半襟が可愛く、なまめいて、胸の四角なみちゆきの中に、のぞいて生える。
おとなしやかに、さしうつむく顔は、小雨の霧に包まれて、ヴヰールをかけた仄に浮かぶ京人形の笑顔の様に、ふさ子の肩ごしに見える。
(吉屋信子『花物語』)
さはいへどそのひと時よまばゆかりき夏の野しめし白百合の花
二人にて常世の春を作れりとわれなほ半(なかば)思はるるかな
(いずれも与謝野晶子)
2014年6月30日
2014年6月19日
百年間もの孤独にわたしを追いやった人物が信号待ちをしているとき、すぐ真横に居るのに気がついた。その人物と関わった期間はほんの一瞬に過ぎないにも拘らず孤独がここまで長引いたのは、後に続く愛がすべて固有のものでは無く、その人物との時間・関係・愛を反復しているに過ぎなかったからだ。
わたしは彼が纏うヴェールを一瞬に凝縮された永遠の中で、はがし続ける。彼の一部分すら永遠に所有出来ないからこそ、わたしは無我夢中で彼を永遠に欲望し続ける。この、フランスの思想家が突きつけた事実は間も無くわたしの経験として機能し始め、それは例えようも無い恐怖であった。が、永遠に尽きない欲望の連鎖を断ち切るのは容易だった。彼の肉体の内側にまで侵食しているヴェールから手を放し、はがすのをやめればいいだけだった。
わたしが直接受けたわけでは無く友達に相談されたことなんだけれど、久しぶりに物凄く打ちのめされる話を聞いて眠れない。いかなる場合にも正しく在るためには、自分の中に確固たる正しさの聖書を持つんじゃなくて、不断に他人の内から正しさを見出さねばならない、という当たり前の事実を知らない人間というのは結構多いのだということが、大学生になって知った絶望的な発見の一つである。正しさは物凄く巨大な存在だから、われわれヒトごときが選択出来るようなものでは無いのだ。そしてまた、自己愛が強いくせに、自分にとって最も必要なものが何か分からない人が多いということ。
なんだか悟りすました善人気取りで恐縮であるが、ただ単純にエモの情態に置かれているだけである。まったくああいった話を聞くにつけ、ほんとに悟って仙人になって、あらゆる対立概念の周縁であぐらを掻いていたいような、いややっぱり最後の最後まで人類を信じてみたいような、相反しているのだか愛という一点で完全に同質なのだか、道に迷ってファックと叫んでいた白人のおじいちゃんの気持ち、うどんの外は災難じゃい、そんな感嘆が口から鼻から漏れます。
もう如何ともし難いので、天使だった頃の思い出という設定の妄想に浸って安寧を得たい。そう言えば先日、「ベルリン・天使の詩」未鑑賞の恋人が、「もしかして、前に天使だったことある?」と訊いてきたので「エッ、何で分かったの」と驚いた次第である。
2014年6月16日
冗談だと分かっているのに嫌だと感じること、というのが存在しなければいいのにと思う。わたしはそのことについて、どこまでの指摘を許されているのかがさっぱり分からない。でも許すって誰から?それにしてもあなたはまるで、理性と感性がまったくの別物ででもあるかのような言い方をする。そういうのは今すぐによすべきだ。何故ってあなたの無知を露呈することでしか無いから。
・映画
「グランド・ブダペスト・ホテル」
→色んなことをやっていてそのどれもがいい匙加減だった。ただウェス・アンダーソンの残念なところは、コメディ映画なのにめちゃくちゃギャグのセンスが低いというところ。でも隣の人は結構笑っていたから、壊滅的かつ絶望的なまでにわたしと笑いの趣味が合わないと言うほうが正しいかも知れない。たとえばエゴン・シーレ風の絵を引き裂くのとか猫をポイと窓から捨てるのとか、それこそ「ブラック・ジョーク風」という感じでだから何と思う。ウェス・アンダーソンの映画はグザヴィエ・ドランの「わたしはロランス」を観たときと同じ感じがする。感じ感じってさっきから無根拠極まりないんだけどブログだしそれもまた乙。
でその「感じ」はどんな感じかと言うと、冒頭で書いた「いい匙加減」という部分が要するにそれである。彼らは器用で頭がいいんだろうな、という感じ。「こうすればセンスのいい映画が撮れる」というのを知識として知ってしまっているのだと思う。それは仕方のないことであるとも思う。百年に一人の天才でも無い限り、われわれ生来の凡人(さすがに二人は凡人じゃないけど)が芸術家だ哲人だと呼ばれるには死神あるいは悪魔かそこら辺の奴らに魂を売らなければならない。でもその買い手だってさすがにもう人間に倦んでいてろくに買ってくれやしない。強いて言えば、黒人の魂がかなりアツい、というような話はあるのだろうけれど。
だからどうってことでも無い。進行しているあらゆる芸術活動が無意味だと言いたいのでも無い。意味が無いものを尊べないほうがつらい。形容詞が多い。
予告編で流れた「リアリティのダンス」が面白そうだった。
「タロットカード殺人事件」
→心底ミステリーに関心が無いので観てなかったんだけど、全然ミステリーじゃなかった。いつものラブコメだった。ウディ・アレンは顔が面白いので狡い。ウェス・アンダーソンも見習うとよい。
2014年6月13日
2014年5月13日
2014年5月7日
2日に「アデル、ブルーは熱い色」を観た。ゴダールが「彼女について私が知っている二、三の事柄」を撮った国なのだから当たり前と言えば当たり前だけれど、フランス映画は社会問題への言及の仕方が上手だなぁと思う。「パリ20区、僕たちのクラス」とか「クリスマスストーリー」とかも面白かった。それも所謂「社会派」の作品で終わってしまわず、「アデル」が紛れも無くラブストーリーであるように、アデルとエマを取り巻く環境を通して、生政治的なものに対する問題提起が行われている。実際、劇中で2度もアデルがデモに参加するシーンがあって(セックスしている時間の長さより、2回もデモやってるほうが注目すべきなのでは?と思う。あと「On lache rien」が流れてて良かった)、彼女はとにかく色んな形でその生政治的な問題に対し、意識的にも無意識的にも抵抗している。アデルの両親とエマの両親の会話も分かりやすくていい。親の年代ではマジョリティであろう、安定志向の保守的な考え方と、ばりばりの芸術一家です、みたいな個人主義的な考え方の対比。
こういう、小さい穴から射した光が、奥の壁に微かでも広い明かりを投げ掛けるような描写というのは、先にも述べた通り「半径50メートル以内のことしか描いていない」(うろ覚え)という批判を浴びたヌーヴェルヴァーグの系譜だからなのだろうかな、と感じましたが正確なところは知りません(「クリスマスストーリー」は、ヌーヴェルヴァーグに回帰している、というような批評をされたらしいが)。まあ、娯楽性の低い社会派映画だと誰も見ないから、ラブストーリーの体裁で映画を撮ったのかな、という皮肉な見方もしないでもない。わかんない。それこそお国柄というやつか。「ムード・インディゴ」だって、「インターナショナル版」と銘打たれたヴァージョンは、ただのお洒落な恋愛映画みたいになっていたらしいし。だから「紛れも無くラブストーリーである」と書いたけれど、愛がこの映画のテーマだとは思わない。鑑賞者の関心によって「政治の話」「家族の話」「教育の話」「芸術の話」…といったように様々なテーマが浮かんでくると思う。一つ確実に言えることは、レア・セドゥと視線を交わしたい、ということ。それとこれは個人的な趣味だけど、わたしは歯並びに強い拘りがあって、アデルとエマの歯並びは二人とも非常に良かった。ほかの国の女優はみんな、カチリと綺麗な歯並びだけど、フランスの女優は独特な歯並びの人が多い気がする、これはジェーン・バーキンの力?
映画鑑賞後、劇場をあとにし、われわれはどちらからともなく「ボロネーゼ食べようか」と言い、ワインバーへ直行した。アデルは事あるごとにボロネーゼを食べるので。それで、そのアデルが嫌いな生牡蠣を食べるシーケンス(まさに保守的なものへの抵抗)があって、生牡蠣も食さねばとなり、新宿のオイスターバーで生牡蠣を鱈腹食した。面白い映画だった。
こういう、小さい穴から射した光が、奥の壁に微かでも広い明かりを投げ掛けるような描写というのは、先にも述べた通り「半径50メートル以内のことしか描いていない」(うろ覚え)という批判を浴びたヌーヴェルヴァーグの系譜だからなのだろうかな、と感じましたが正確なところは知りません(「クリスマスストーリー」は、ヌーヴェルヴァーグに回帰している、というような批評をされたらしいが)。まあ、娯楽性の低い社会派映画だと誰も見ないから、ラブストーリーの体裁で映画を撮ったのかな、という皮肉な見方もしないでもない。わかんない。それこそお国柄というやつか。「ムード・インディゴ」だって、「インターナショナル版」と銘打たれたヴァージョンは、ただのお洒落な恋愛映画みたいになっていたらしいし。だから「紛れも無くラブストーリーである」と書いたけれど、愛がこの映画のテーマだとは思わない。鑑賞者の関心によって「政治の話」「家族の話」「教育の話」「芸術の話」…といったように様々なテーマが浮かんでくると思う。一つ確実に言えることは、レア・セドゥと視線を交わしたい、ということ。それとこれは個人的な趣味だけど、わたしは歯並びに強い拘りがあって、アデルとエマの歯並びは二人とも非常に良かった。ほかの国の女優はみんな、カチリと綺麗な歯並びだけど、フランスの女優は独特な歯並びの人が多い気がする、これはジェーン・バーキンの力?
映画鑑賞後、劇場をあとにし、われわれはどちらからともなく「ボロネーゼ食べようか」と言い、ワインバーへ直行した。アデルは事あるごとにボロネーゼを食べるので。それで、そのアデルが嫌いな生牡蠣を食べるシーケンス(まさに保守的なものへの抵抗)があって、生牡蠣も食さねばとなり、新宿のオイスターバーで生牡蠣を鱈腹食した。面白い映画だった。
2014年4月30日
アルバイトが終わりスマートフォンをひらくと、「映写室に居るから、着替えたらおいで」と連絡が入っている。言われた通り着替えて、ついでに化粧を直し髪の毛を梳ってから、なるべくヒールの音がしないよう映写室に向かう。ドアノブを捻り隙間から顔を出すと、近頃よく見掛ける男が居て、疲れたふうな顔でこちらに微笑む。わたしは、こんばんは、と言って男の隣に座る。男はアルバイトの連絡帳の頁にある「夫々」という字を指差して「これ何て読むっけ」と聞く。それぞれだよ、と答える。男は関心した様子で頷くと、わたしには分からない、アルファベットを組み合わせた用語をそのノートに幾つも書き連ねる。退屈そうにしている気配に気付いてか、「何読んでるの、最近」。ツルゲーネフだよ、あなたは?「そこの、電話の横」男が一瞬顔を上げ、視線を向けた先――時代から半分取り残されたこの部屋では、未だに黒電話が使われていて、その隣に永井荷風『夢の女』が置いてあるのが目に入る。あめりか物語の人だ。「そうだね」男はノートを閉じて短く息を吐き、その場で着替え始める。
「ねえ、夏休みみたいだね」
「何が」
「楽しいと、夏休みみたいだと思わない?」
男は相変わらず微笑むばかり、くたびれたジャケットを羽織る。スルリとこちらを向いて「お待たせ」と言い、わたしに2回キスをする。そしてわたしたちは、かつて夢で通った薄暗い螺旋階段をどこまでも下る。ビュウと吹き上げる風に、灰色のスカートが捲れる。それに気づかぬ恋人たちは、燥ぎながらどこまでもどこまでも下っていく。
「ねえ、夏休みみたいだね」
「何が」
「楽しいと、夏休みみたいだと思わない?」
男は相変わらず微笑むばかり、くたびれたジャケットを羽織る。スルリとこちらを向いて「お待たせ」と言い、わたしに2回キスをする。そしてわたしたちは、かつて夢で通った薄暗い螺旋階段をどこまでも下る。ビュウと吹き上げる風に、灰色のスカートが捲れる。それに気づかぬ恋人たちは、燥ぎながらどこまでもどこまでも下っていく。
2014年4月27日
2014年4月22日
あれだけ楽しみにして居たのに、おいしいカレーを食べて愉快な映画を観たらお財布の中身がスッカラカン。買えなかった。まあいいか、と諦めだけは大得意、サウンドクラウドさまさまを頼りにこのメイヤー・ホーソーンの歌う「幽霊の気分で」でノリノリになりながら、おでんと刺身と日本酒を味わう夜更けであった。それは恋人の部屋という侘しさの中で。
最近非常につまらない気持ちにあって、加えて例の両手が巨大化する感覚に毎夜苛まれており、どこもかしこも永遠から振り落とされているのを知覚せざるを得ない。頭の左側にミツバチが居て、ブンブンブンブンブンブンブンブンうるさくて、それを避けようとしている感じ。あるいはドアノブにおでこを押し当てて、ゆっくり体重を掛けていって、耐え難い痛みを感じた辺りで、後ろから隠れていた子猫がニャアといってわたしの横をすり抜けてゆく気配を覚える感じ。あと身体がマトリョーシカみたいになって、いま何層目の自分に生きているのやら、はてな、ってなる。がっかりするよ。
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