2013年7月28日

 現実の出来事を一つの契機として、妄想が花のようにぽつぽつと咲いていく。なまじ事実に根差しているから、どこまでが現実でどこからが妄想かわからなくなって、気付くとツイッターやらこのブログやらに書きかけて、あーこれほんとは無いかも、夢かも、夢っていうか私が作ったなんかよくわからん謎の、妄想。とおもって手を止める。本当の確率が99パーセントのことを書くなら、ゼミのレポートを書き終わった。いやほんとはあと500文字くらい足りない。もう書けない。「前者は「生きられた世界」での運動であり、後者は客観的世界に於いての可能性に過ぎないが、現在という視座からこの二つを眺めるとき、それらはまったく同じ方法で変容せられているのである。」みたいな、あーはいはいっていう感じのことを書いている。
 土砂降りの雨が降っても洗濯物を取り込まない。でも新聞の集金に来たおじいさんには「お疲れ様です」と言う。孤独の新しいあり方の前で立ち往生している。日々はまぼろしよりも馬鹿げていた。

2013年7月27日

 29日がゼミのレポートの提出期限なのだけど、出来れば明日というか今日には終わらせたくて、というのも日曜日に友達とうなぎパーティーというパーティーの中でもかなり最高の部類に入るパーティーの予定を入れてしまったため。テーマに沿わせなきゃと思って先週末くらいまでそーいう本を読んでいた。しかしどうにも私の興味が沿わなくてつまらん。ので教授に「考えれば考えるほどテーマとずれていくんです。だからもう全然違っていても、許してください」と言ったら(ひどい)、「いいよ。あなたの好きなようにやってくれれば、それが僕の読みたいものだし」という有り難いお言葉を頂戴した。甘やかされている。ということで、いまメルロ=ポンティ『知覚の現象学』を大急ぎで読んでいる。ブログ書いている場合じゃない。裏表紙に著者近影が載っている。毎朝欠かさず牛乳を飲んでいそうな面立ち。
 3月頃だったか、私の書いたゼミのレポートが学科誌に掲載されるという話をしたような気がする。それがまあ、あなたの文章は荒いからもっと丁寧に書き直して、と言われていたのに生まれついての怠惰が猛威を奮って締切を落とし、ほんとひどい体たらくであることよという感じで、教授に迷惑掛けて申し訳無くて、ひーひーと猛省するというオチがあったのであった。思い出す度涙が出そうになるから、(ノイズ・ミュージックについてのレポートだったので)ノイズが全然聴けなかったくらい、結構引き摺っていた。それが先日、「春休みに出してくれたレポートあるでしょう。あれ、載せないの勿体無いから、来年度の学科誌に掲載させて欲しいんだ。だからこの夏に書き直しておいてね。よろしく」と言われたのである。これはすっごくあいしてる、と思った。卒論も書こうと思った(文学部であるにも拘わらず、卒論を書かなくてもよいという終わっている大学に通っている。そのため卒論を書くのは院に進もうと思っている人か、単位の足りない人が殆どである)。

2013年7月25日


2013年7月23日

# 01
・非人称の快楽。
・作品と作品が結びついて生成されるシンタクスでは無く、作品と観客の関係から生まれるシンタクス。
・アントロポモルフィズムを剥離させるための単純化。


# 02
im angry at you and im not talking to you today and tomorrow.

p.s. all day.
p.s.s. i still love you.



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ブラディ・メアリーうま太郎。

2013年7月22日


2013年7月21日

 久しぶりに頭に来ることがあった。以前だったら「私はあなたの言ったこの言葉がこれこれこーいう理由で以てこんな具合に許せません」と一つ一つ懇切丁寧に詳らかにして、お互いもーウンザリの態、だったのだけど、頭に来るの半分、悲しいの半分で、もう言葉にして伝えたって、意味無いんだなあと、やっぱり悲しいのが八割くらい。言葉を尽くして視線で補って、ってした上での今回である。今まで「わかってくれる人だけわかってくれればいい」論に疑問を呈し何とかそんなこと無いってことを証明したい、せめて自分の中で、と思って諦めずにいたが、もういいや。わかってくれる人がわかってくれるのは、私の思考を慮って、というより元々その人の中に同じような思考が培われているとか、これまでの人生で似たような経験があるからで、すべては一目惚れで成立している。だからもうあなたの帰りは待たない。

2013年7月17日

 金曜日に手術をする。友人には話していないし話す心算も無いけれど、突然「この間手術したんだけどさー」みたく話したら面白いかな、面白いんだったら話そうかな、とはすこし思う。病院に行くということを最近よくする。病院自体は好きでも嫌いでも無いのだけれど、病院に行くのは、生活を一旦引き戻されるというか、思考を肉体に結び付けられる感じがどうにも苦手だ。一度目が向くと次から次へと悪いところが見つかる。まるで生きていたいみたいに。
 昨日何気なく、アルバムを見ていた。5、6歳くらいの頃にあったピアノの発表会の写真があって思い出したこと。私は発表会の時、必ず意図的に弾き間違えるようにしていた。誤魔化しもせず、むしろ間違えたことを誇示するように、不自然なくらい間を空けた。そうすることで後の人の緊張がほぐれると思ったからである。なあんかこういう、誤った優しさの具体化というか、人に与えることによる優しさでは無く、自分を損ねることによる優しさというのか、言いたいことは分かるんだけど、違うよね、という。でもこの人なりに頑張って人に優しくしようとしているのだから、言えないよねえ、という。ことを思いました。
 「損ねる」という言えばハルキ・ムラカミである。先日、アルバイト先の先輩Tさんが『色彩を持たない~』を貸して下さったので読んだ。酷い話だけれど、私は彼の作品の性描写を読んでいる時いつも脳裡に「これ書いてるの、あのおにぎりみたいな顔したオジサンなんだよなあ。せつな」という本当に酷い考えが浮かんで張り付いて剥がれないので、出来れば無いといいなあと思っていて、今作はそれが控えめであり、内容に集中出来た。今まで読んだ彼の作品の中で一番面白かった。色彩から解放される話。いまAmazonのレビューを読んでいたら「上方落語協会の役員みたいな容姿」と言っている人が居て私より酷いと思った。酷さに「より」も何も無いか。自分も容姿に自信が無いくせに人の容姿に良かれ悪しかれ言及するのは下品極まりないことです。アーメン。
 「アーメン」と言えばこの間借りて読んでいた雑誌にVISSARIONというロシアの新興宗教の話が特集されていた。教祖は「シベリアのキリスト」と呼ばれているらしい。容姿はキリストを意識しまくりで、さらにアントン・ニューコムとエイフェックス・ツインを足して3で割ったかんじ。嫌な3人を足したものだ。ぱらぱら捲っただけなので文章は碌に読んでいないのだけれど、写真が面白くて、中世の宗教画そのものなのだ。髭を生やして天鵞絨ぽい寛衣を身に纏った、聖者のイデアみたいなおっさんが10人くらい、暗い室内で火を囲って何やら儀式をしている。信者が教祖に向かってワーと縋っているのとか、あーこれドストエフスキーで読んだぞ~この後すごいこと起こるやつだぞ~ってなった。宗教と言えば、最近民俗学にかぶれていて、…といった具合に話は案外尽きない。
# "l(a" E.E.Cummings(1894-1962)

l(a 
le 
af 
fa 
ll 
s) 
one 
Iness



# "Herbst" Rainer Maria Rilke(1875-1926)

Die Blätter fallen, fallen wie von weit, 
als welkten in den Himmeln ferne Gärten; 
sie fallen mit verneinender Gebärde. 

Und in den Nächten fällt die schwere Erde 
aus allen Sternen in die Einsamkeit. 

Wir alle fallen. Diese Hand da fällt. 
Und sieh dir andre an: es ist in allen. 

Und doch ist Einer, welcher dieses Fallen 
unendlich sanft in seinen Händen hält.

"Fadensonnen" Paul Celan(1920-1970)

Fadensonnen
Über der grauschwarzen Ödnis.
Ein baum-
hoher Gedanke
Greift sich den Lichtton: es sind
noch Lieder zu singen jenseits
der Menschen.



 「詩(思)というものが不可能となる」というのは、語が嗚咽のうちで喉の奥につまり、もはや声とならないことを意味するのであって、「何を言っても白々しい」というような単に嘲笑的な懐疑にさらされる事態のことを意味しているわけではありません。(…)ただ、「jenseits der Menschen:人間の彼方に」というツェラーンの詩句は、アウシュビッツという「狂気」の絶対的ともいうべき圧倒性を前にして、反対に「理性」の方が呑み込まれてしまう・・・いわば「理性」の消失点に身を投身しながらの探索・詩作を暗示してはいないでしょうか? 「規則がないもの」があるとしても、我々は「規則がない」として「理」解します。 地球上に実在した「或る地点」においては、≪「規則がない」として「理」解します≫という言説そのものが無意味となります。この無意味さ・・・ツェラーンが「無の詩人」とも呼ばれたゆえんかなと思います。

・ Jacques Derrida, 1930-2004
 「誰でもない者」 に向かうとは、誰にも向かわないことと同じではない。「誰でもない者」 に語りかけること、そしてその都度その度ごとに、比類のない方法で、祝福され得るものは誰もいない。祝福し得る者は誰もいないという恐れを抱いて語りかけること――それが祝福の唯一の可能性ではないのか。自身を確信している祝福などというものは? それはひとつの判断、ひとつの確信、ひとつのドグマだ。
・Ingeborg Bachmann, 1926-1973
 一つの墓標銘、すなわち 『詩のフーガ』 を携えてまず、彼は私たちのもとに表れた、夜の果てまで旅をした光輝に満ちた暗い言葉を携えて。
・Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund, 1903-1969
 ツェランの詩は極限の恐怖を、口にしないことによって語ろうとしている。その詩の真実内容自体が否定的なものになるのだ。その詩は人間たちの間でも寄る辺ない人々の下にある言葉、それどころかあらゆる有機的なものの下にある言葉を模倣している。死者となる石や星の言葉を。有機的なものの最後に残っていた残骸も除去される。