2013年11月24日

1029
 25日に東京国際映画祭に行った。26回もやっているなんて知らなかった。初めて行った。25日はサクラグランプリ受賞作品の上映日だった。「ウィー・アー・ザ・ベスト!」というタイトル。ださ。監督(舞台挨拶に来ていたんだけど、むっちりしててかわいかった)の妻の実話を基にしているらしい。80年代スウェーデンが舞台で、中学生の女の子3人組がパンクに目覚めてがんばるぜ~という話。グランプリって感じの華々しさは無かったが、ふつーに面白く観られた。いちばん良かったのは、エレキギターを買うために3人で物乞いをして、結構お金を集めるんだけど、そのお金でお菓子を買いまくってみんなでお菓子パーティーしちゃうってところ。あと画像右の女の子が「私は神よりケチャップを信じる」と言っていたのも良かった。

 映画が終わって場内が明るくなるときに、みんなで拍手をした。それがかなり最高だった。映画館で映画を観終えたあとの、あの何とも言えないばつの悪さが苦手だ。みんななるべく目を合わせないようにヌンッ…と席を立って、係員の「只今より清掃を開始いたします」が聞こえる感じ。何だろうあれ。あのヌンはなんて名前のやつ?拍手したのは多分今回が初めての体験だったけど、しっくりきた。それと、グリーンカーペットは人工芝ぽかったです。

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 「パルプフィクション」という映画をよく観ます。どうして面白いんだろうと考えました。恐らく、映画を観るときというのは、知らず知らずのうちに映画そのものでは無く物語を観るようになってしまっていると思うんです。そうでもないかな。どうかな。でも「パルプフィクション」は、本来映画っていうのは連綿と続く一つの流れでは無く、いくつもの断片が集まって出来ているんだよということが、分かりやすくアレされています。だから、幼少期のブッチが「ワン公ってバカだな~ トーテムポールを怖がってる~」とかいう訳分からないアニメに夢中になって「うわーいアニメじゃーい」ってテレビに齧り付いてるように、「うわーい映画じゃーい」って楽しめるのではないでしょうか(「パルプフィクション」は訳分からない映画ではありませんが)。“いい話かどうか”が価値基準では無いということです。なんか分かりきったこと言いまくってる。どうしたことだろうな。
 これをフランスでいちばん洒落たハゲの人がやると「彼女について私が知っている二、三の事柄」になるんですかね。あれもいい映画ですね。「LSDが無ければカラーテレビをどうぞ」みたいな気の利いた言い回しとかわいいパリジェンヌがのべつ幕無しに出てくる。私もパリジェンヌになりたいな。ではパリジェンヌとは何か。以下引用。「パリを愛した随筆家 小門勝二によれば、パリジェンヌとは出身地などの地理的な区別はなく『パリを美しくする要素としての女性すべて』だという。」板橋区民にもチャンス到来。そう言えば、「愛のむきだし」で、ユウの父親がこれからカオリとヨーコと家族になりますよってレストランで紹介したときのヨーコのワンピース、あれはアンナ・カリーナですね。確か2008年のアニエス・ベー。「アンナ・カリーナ風」というより完全に被せにきていたんだけど、あのシリーズはすべて良かった。

 今日、どうしても印刷したいものがあって、しかし出先でPCが無いからスマートフォンの画面をコピー機にあててコピーしてみた。そうしたらすごく綺麗にスマートフォンの形が写って肝心の画面は真っ暗、というすごい紙が出てきた。コンビニで一人で「ヒャ」とか言って笑った。

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 所詮おまえの悲しみなんてその程度のものだよ、という意味の言葉だった。多分間違っていない。それでいいんじゃないか。私は君の次の次くらいに不幸だ。彼女は君より5つ不幸で、彼は私より7つ幸福。こんなふうに、悲しみは何通りもあるが幸福は一通りだけと決まっているのだ。今この瞬間も「誰が最も不幸か」を決めるための催しが地球上の至るところで行われている。そこにおまえは選ばれない。おまえだけは絶対。何があっても。だから悲しむことは赦されない。いつだって笑っていろ。さもなくば“より不幸な”何十億もの人々の顰蹙を買うことになる。幸福で居るのも難儀だ。死んで欲しくない人は生まないのがいい。そこにおまえは選ばれない。おまえだけは絶対。

95
 バーは総じて暗い場所だがそれにしてもここは暗い、とAは思った。3杯目のマリブコークは氷が溶けて薄茶色い水になっていた。友人のMは今朝恋人と喧嘩をし、それに関する謝罪の電話を掛けるため席を外していた。よってAは一人だった。目の前の壁に丸い鏡が掛かっていた。顔を上げるとすぐに自分と目が合った。Aは鞄から本と煙草を取り出した。ライターが無かった。通りがかった店員を呼んでライターの有無を尋ねた。「マッチならありますが」不愛想な店員はそう言ってどこかへ消えた。彼はすぐに戻って来た。Aは左の手のひらを上にして差し出した。店名が印刷されたマッチ箱はその上には置かれなかった。店員はまるでAの手など見えないかのように木のテーブルの上に直接それを置いた。Aは煙草に火を着けて本を開いた。本の中で二人の若者が一人の老人を滅茶苦茶に叩きのめしていた。
 間も無く本は読み終わってしまった。煙草はあと4本残っていた。Mが戻って来る気配はまるで無かった。Aは次の煙草を口にくわえた。あと3本。煙草が減るごとにAの中の考えるべき事柄も消えていった。間違い無く、Mはもっと早くこの暗い地下へ戻って来るべきだった。もうここには何も残されていなかった。あるいは何もかもが無くなる予感だけがあった。

91
 日に日に感じることが無くなる。われわれはそれでも移動する。数時間ごとに。同じ話を繰り返す。いくつか前の今を「過去」と呼んで思い出す。何度も思い出す。あまりに繰り返されたがために何の感興も催さなくなるまで。
 生活と悲しみは平行して存在する。両者は等しく翳る。しかし手を伸ばし合いはしない。出来事は延々と続く。悲しみの結論は出来事によって導かれるのでは無い。それは無遠慮な「考え直す」という作業によってのみ為される。というのをウディ・アレンの映画を観ると思う。愛はさて置くとして、少なくとも生活は途切れない流れです。死ぬまでは。

817
 今日は友人と映画を観に行く予定だった。朝、歯痛がひどいという旨のメールが入っており、不意になった。テレビをつけると、新宿東口の見慣れた風景が青空をバックに映されている。天気予報士はまるで新世紀の到来を告げるかのような口振りで「今日も一日夏空が広がるでしょう」などとを言っている。テロップが示す気温は34℃。うんざりして部屋に戻り、本の山の間に寝転がる。すっかり眠る心算で目を瞑ると、化粧品が無くなりそうなことを思い出す。ゆっくり時間を掛けて支度し、汗みずくになりながら電車に乗る。
 デパートの化粧品売り場は強い香水の匂いと女たちの吐く息で充満している。暑さにうろたえながら目当てのブランドのある一角に辿り着き、店員に促されるまま黒い鏡の前に座る。鏡の縁に沿って小さい点が何十と規則正しく並んでいて、そこから漏れる白い光が客たちを照らしている。店員は抽斗から取り出した新作の化粧品を私の顔に塗り付けるたび、よい反応を求めてくる。裸眼でほとんど見えていないが、きちんとそれに対し「全然ちがいますね」「きれいな色ですね」と言うやつをやる。
 チェーンの喫茶店へ移動する。喉が渇いて仕方なく、ミルクティーを一気に半分ほど飲んでしまう。セリーヌ『夜の果てへの旅(上)』を読みながら(これすごくつまんない。もう1ヶ月くらい読んでいるのにまだ55ページ!しかも(上)ってどういうこと。まあ(下)がありますよってことなんだけど。とか言って(上)(中)(下)だったら最悪)、隣に座っている一組の恋人たちの話を盗み聞きする。男は大学院に進むらしい。最初は無難に海外ドラマの話をしていたのだが、いつの間にか話題は男の専攻であるフランスの近代美術に関するものに推移している。男は女にマックブックやアイフォーンで画像を見せたり、手元にある本を開いたりしながら、フランスの近代美術について楽しげに語っている。女は興味深げにフランスの近代美術に関するそれらを覗き込みながら、可愛らしい笑顔を浮かべて「へえ」「すごい」「そうなんだ」等々、絶妙なタイミングで最適な相槌を、フランスの近代美術に関する話の隙間に、打つ。打ち付けている。それぞれがそれぞれの行為を正しい愛の作法だと思い込んでいる。彼らは間違っていない。たぶん。分かり合えなさと退屈ってやつだ。でも、いまそんなのはどうでもいいんだ。私はセリーヌにむかついているんだ。美味しそうな名前しやがって。先月くらいに友達が作ってくれたテリーヌ、美味しかったな。食べているそばから「もっと作って!」って言った。もっと食べたいと思ったから。
 遅くなってごめんね。

幸せですか。
>分かりませんが、私には楽しい時間があります。

いまいちばん悲しいことはなんですか。
>お腹がいっぱいで、シベリアの最後の一切れを食べられそうにないこと。

こんにちは。最近どうしてますか?
>相変わらずです。大学に行って、アルバイトをして、友達とお喋りをして、好きな人と一緒に眠ります。空いた時間に映画を観たり、本を読んだり、音楽を聴きます。あとよく泣く。相変わらず。

一方井さん
>まさか見て下さっているとは思いませんでした。とてもうれしい。あなたこそ健やかで素敵な生活を送っていらっしゃいますように。悲しいときも、寂しくはありませんように。

お元気ですか。更新が減って心配です。
>元気です、ありがとう。

ツイッターはやめてしまったのですか?
>やめてしまいました。フェイスブックもやめました、これはどこにも行く宛ての無い報告。
 お久しぶり。特に何も無いのに泣いてばかり居て面倒くさい。私は結構頭がいいから、みんなが必死に探究している世界の秘密とか宇宙の真理とか知っているんだけど、錘が無くなるとふわって浮いて死んでしまうから、仕方なくこんなふうなんだよ。などと言って余裕が無いです。足るを知れ、と繰り返していますが、寛容さが無限に広がっていると思い込んでしまって、広げられるだけ手足を広げようとしてしまうので、駄目なんです。
 私の最も親しい友人が、16歳の頃に言った言葉「人と人とがどんどん疎遠になっていく様子を、自然にではなく、お互いにその作業を一つ一つ、動作や行動をスローに確認してゆく、ああ、こうやって他人になっていくのか、という日常に混ざる相対尽のものを、惜しんで悲しんで、それさえも大事に見届けようとしているような、ただ地獄絵図を見ているような、見させられているような、そんな気持ち。」そんな気持ち。そう言ったら相手は「そんなこと無いよ」と笑うんだろう。それにこんなことを言ったら、いよいよ手の届かないところまですべてが飛んで行ってしまう。どうにかしなくてはならない。なのに何も起こっていないからどうする手立ても無くて、涙ばかり出てくる。最近毎朝、不安で目が覚める。こんなのは私じゃない。スタン・ゲッツの甘い音楽の中で、あなたを抱き締めてあげたい。こんなのは私じゃない。

2013年11月6日

 こんにちは11月。最近目まぐるしく生きていたが落ち着いた。明日CDを買おうと思って、好きな男の子に朝に丁度いい音楽を尋ねたら、「君がスフィアン・スティーヴンスを聴いていたらいいな。似合うと思う」と言われた。