2014年7月23日

 なんでか今日なにも無いと思って目覚ましをセットせずに寝た。11時に起きた。よく考えれば2限(10:45から)テストだった。はあ。責任の発生しない人生は最高。先日そういえば気管支炎になった。4月だかなんだかに胃炎になったし、その前もいろいろの炎を、なんて部屋で汗をだらだら流しながらパソコンに向かっていたら蝉が鳴いている。油蝉だ。そうそれで、去年の今頃、梅雨辺りからいろんな病気を、主に炎をこじらせるようになった。病院に行く前にインターネットで症状から病名を調べると大抵「がん」と出てくる。今回なら「咽頭がん」。もう駄目なのか、どう考えてももっと長生きして楽しいこといっぱいしたいし花火とか盆踊りとか、浴衣着て、行きたいのになあ。と祈るような気持ちで病院に行き、なんらかの炎であることを医師に告げられ安堵の溜息を帰路ひたすら漏らしながら歩く、といった日々。
 今日このあと何時からか知らないけど友達と遊ぶ予定が入っていて、でも面倒になってきたなあ。このまま家でじっとり汗をかいて居たい。この部屋がこんなにも暑いのは、クーラーのリモコンを紛失したから。暑い。いますごく暇で、といってもレポートをせんならんので暇では無いんだけれど、なんとなく町田康のオフィシアルサイトの日記を遡っていたら、「PUNK」と書いたティーシャツを着てバンドの人たちとの集合写真に臨む町田康が居た。ふざけたジジイ。と思った。ダンテとかドストーエフスキイとかそういった大理石を担ぐ作業みたいな本ばかり読んでいたから、あ~ラノベ読みたい~、と思って町田康の本を昨日一昨日は読みました。「俺、南進して」「くっすん大黒」「パンク侍、斬られて候」「真実真正日記」「夫婦茶碗」の順で読みました。「俺、南進して」と「パンク侍、~」を合体させてよりコクを出したのが「告白」なんだなあと思った。いちばん良かったのは「夫婦茶碗」。思い掛けず滑稽でいじらしく切ないラヴ・ストーリーだった。
 この間大学の前のカフェだかレストランだか分からないけどそういった類の飲食店の前を通ったら、なんていうジャンルの音楽なのか分からないけどアコーディオンを使うような類のバンドが演奏をしているのが、開け放たれたドアから聴こえた。演奏がちょうど終わるところで、客は各々丸テーブルに就いて安楽な状態で満足げに拍手を送っていた。いいなあと思った。

2014年7月22日

 ゼミのレポートを書こうと思ったのにただじっとりと汗をかいて読書してアイスキャンデーを2つ食べて一日が終わった。もうすぐお誕生日の友達が居る。その人がわたしの書いたおもしろ小噺をプレゼントに欲しいと言うんで今日すこし書いてみたんだけど、無職の中年男が死んで青りんごになる話を3000字くらい書いて、お誕生日に人が死ぬ話はさすがのわたしでも良心が咎めるな、と思ってよした。それでその後は上に書いたような虚無の時間を過ごした。

 この間諸用で三年ぶりくらいに高円寺に行った。やはり気持ち悪い街だと思った。とは言えわたしも中学生の頃はガロの漫画にはまり、戸川純とかアーントサリーとかあぶらだことかマチゾーとかのサブカルに心酔(仮)して、ビレッジバンガードは汚くて嫌いだったけどそれなりに中央線文化に憧れを抱き、高校一年生で初めてアルバイトしたのは水道橋の飲食店だった。しかしすぐに中央線の駅は気持ち悪いと気付いた。なにが気持ち悪いのかはよく分からなかった。大学よねんせいになったいまうっすら分かるのは(うっすらなのはこれらについて特に考えたいと思わないから)、文化というのは一人では生れず、人と人との関わり合いの中で生まれるわけである。で自分はそういった文化的なグループやチームは嫌いなので、何故なら好きではない人の自己愛に付き合うことが出来ないので、中央線は、気持ち悪いんだよなあ。と思った。

2014年7月16日

 いろいろあって町田康の著作をいくつか読んでいる。「俺、南進して」を読み終えていま「パンク侍、斬られて候」読んでいる。退屈な内容でも「どつき回す」「ほたえる」「こます」の三語が使われた瞬間心にグッとこみ上げてくるものがあるので、いいご身分だと思う。わたしは東京が大好きで他の土地にほぼ興味が無いのだが、方言は心底羨ましく思う。方言に対する憧れが、文体への拘泥とか外国語(ざっくばらん)を習いたがる性向、共通語である英語に対する関心の低さと関係していると踏んでいます。どうでもいいけど。インターネットで方言を使うと、特に関西弁を使うと差別と弾圧の対象になりがちだけど、一気に人間味が出て面白いので嫌いじゃないです。
 町田康の本にはよく落語の話が出てくる。だから落語に明るければより楽しめるのだろうと思う。しかしわたしの聴覚処理能力には少々問題があって、言葉と意味がきちんきちんと連絡し合わず、シニフィアンとシニフィエの彼岸に飛ばされることがしばしばある。そのため音声言語命の落語を楽しむのは難儀なのである。事実、先日授業で桂枝雀という人の「時うどん」という落語を観たのだけれど、関西弁で滅茶苦茶早口なのも加わって一言も聞き取ることが出来なかった。でもあれは結構、落語に親しんでいない人が聴いたら分からないような気がする。どうなんだろう。それでわたしの好きな男が落語が好きだと言うんで「こないだ授業で桂枝雀(本当は「桂…雀に枝?みたいな名前」と言った)ていう人の落語観たよ」と言ったら、「へえ。枝雀が。彼は笑いを究め過ぎて鬱病になって自殺したんだよ」ということを教えてくれた。非常に聡明な人だったらしく英語で落語をやったりもしていたとか。聴覚なぁ。障がいと向き合って生きていこう。


 見知らぬオッサンと交わした会話。

オッサン「ねえ」
わたし「え?」(イヤフォンつけていた)
オ「今までの人生でなににいちばん熱中した?」
わ「え?…本?」
オ「最初にはまった本とか小説家とか覚えてる?」
わ「うーん。芥川龍之介」
オ「ほお。なぜ」
わ「善悪について考えさせられました」
オ「なにが悪だと思う?」
わ「相対的なものだと考えているので定義出来ません。でも少なくとも、好きな人を悲しませたり泣かせるものは悪です」
オ「もし、好きな人になんの感情も無かったら、そこに善悪は無いの?」
わ「好きな人を泣かせるものだけ、とは言ってないんですが」
オ「わかりました」
云々。

 しつこいオッサンは悪。

2014年7月8日




 土曜日に初めて精進料理を食べた。今までのおいしさには大体エクスクラメーションマークが付いていたが、精進料理のおいしさは気分を鎮静化させるものだった。亭主(でいいのか)の方が直々にお話して下さって、「年を取ると懐かしい味を求めてしまう」と仰っていたが、わたしにはどれも新しい味と感じられるものばかりだった。鳥そぼろに似ている山菜とか、甘くてブヨブヨした野菜とかあった。そういうのは結構興奮した。
 ご飯がおかわり自由だったので2杯もおかわりしてしまった。精進の道にあるまじき行為だと恥じた。
 帰りにお寺で紫陽花を観た。霧雨の中の紫陽花は綺麗だった。あとあんみつ食べた。あんみつは毎日食べたい食べ物の一つ。

 日曜日は中目黒を散歩した。ライフの近くにある有名なポップコーン屋さんでポップコーンを買うという精進の道にあるまじき行為をした。キャラメルの甘さが均一でおいしかった。

2014年7月3日

 昨日はイメージなんたらいう映画館で、ジャック・タチの映画を観た(あすこに行くたび渋谷の坂の多さに憤慨する。歩きながら「なにが映画だ、映画はばかの観るものだ、無くなれ」とかの邪智暴虐な宮益坂を除かんとわたしは激怒した)。観たのは「左側に気をつけろ」「ぼくの伯父さんの授業」「ぼくの伯父さんの休暇」の3本立。「右側に気をつけろ」を観たことだし「左側に気をつけろ」は何としても観なくっちゃねと思って行ったのに、肝心の「右側に気をつけろ」を断片的にしか覚えていなくて、というか多分断片的な映画で、というか映画は断片的ですよね。いま「左側に気をつけろ 右側に気をつけろ」で検索してみたけど、曖昧な情報しか得られなくて(ゴダールのシャドウボクシング?二つの映画の馬鹿馬鹿しさ?)、もしかしてみんな何も分かってないんじゃないかと思ってる。どうなんですか。
 どれも映画が楽しかった頃の映画だった。そう言えばファズビンダー特集アットオーディトリウム、今月だと勘違いしていたら明日までだった。超ド級に悲しい。


 最近知った綺麗なものをいくつか。

 そして、二つの瞳を見張つた時、そこに美しい人の姿が仄見えた。
 紫地に荒い立縞のコートに細やかな身を包んで、綺麗な襟もとに、ふつくらと合つた青磁の薄紅の鹿の子しぼりの半襟が可愛く、なまめいて、胸の四角なみちゆきの中に、のぞいて生える。
 おとなしやかに、さしうつむく顔は、小雨の霧に包まれて、ヴヰールをかけた仄に浮かぶ京人形の笑顔の様に、ふさ子の肩ごしに見える。
(吉屋信子『花物語』)

 さはいへどそのひと時よまばゆかりき夏の野しめし白百合の花

 二人にて常世の春を作れりとわれなほ半(なかば)思はるるかな
(いずれも与謝野晶子)